2010年12月24日

平成22年

今年読んだ句集

『健啖』岸本尚毅
『機嫌のいい犬』川上弘美
『新撰21』アンソロジー

すべて図書館で借りた。買ったものはない。
『家』加藤かな文
を読みたくて書店に注文したが、すでに出版社で在庫切れだとのこと。
【関連する記事】
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2009年12月31日

平成21年

今年買った句集

高柳克弘『未踏』

一冊のみ。
鑑賞文はまた来年。
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2008年12月31日

この一年

何も書きませんでした。
posted by ハクメイ at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月31日

卯波

東京銀座の「卯波」で飲んだ。
夜風が冷たさを増しつつある、平成十九年十一月の一日のこと。

出張の二日目、昼間一緒になった方々との夕飯のあと、一人そこへ足を向けた。
買い求めておいたガイドブックに、手書きの印。
すこし酔いながら、すこし時間も気にして、やや道に迷う。
たどり着いたその店は予想より小さく、おばあさんのようだった。
そのまま面食らっていると中から客と見送りの若い女性が出てきた。
彼女は店員らしく、わたしに声をかけ、店内へと案内してくれた。

入り口では頭をぶつけた。
店内もまた小さかった。
カウンターは八席程と見受けられ、内にいる大将とは頭突きが届きそうな近さ。
その空いていた手前左奥に潜り込んだ。
カウンター下には俳句の結社誌やら総合誌やらが無造作に重なっている。
そこに嬉しくなるが、どれも最新ではなくやや古いのがすこし哀しい。
大きな荷物を預け、表に看板が出ていた酒を冷やでたのむ。
一つ二つの空席を挟んで隣のお客は三十過ぎくらいの女性だった。
せんだんの句会に出たがその内容がひどかった、としきりにぼやく。
出された句のメモを持っていて、大将にも渡す。
大将も目を通してひどいと嘆く。
せんだんとは「栴檀」か、「船団」か。

女性の向こう側には中年男性が二人並ぶ。
遠い方はわたしより後に来た。
どの人も初めてではないらしく、大将との会話が切れない。
料理を食べたいが注文できずにいると、察したように店員さんがいかがですかと注文を取りに来てくれた。
だし巻き卵と、目の前の大皿にあった芋をお願いする。
芋はピンポン球大のじゃがいもの揚げ煮で、柚子風味でいただき美味だった。

店内ではカウンターの客三人と大将、店員嬢の話が続く。
わたしはもっぱらそれを聞きながら店内の雰囲気を楽しんでいた。
出てきた話は、句会のこと、若手俳人のこと、飛行機が空を飛び船が海に浮くこと、常連さんが店に持ってくる手みやげのこと、そして卯波をたたむということ。
「店をたたむことになりました」との大将の言葉を聞いて、やっぱりそうなのかと思った。
地主が代わり、立ち退きを迫られていることは大将のブログで知っていた。
移転に協力を惜しまないとの声も少なくないが、来年には卯波はなくなるそうだ。
お流れで頂戴したスターフルーツをしゃぶりながら、今日来て良かったと感じた。

いつしか奥の座敷は空になり、食器も片づけられていた。
女性客の句集を奥の男性が買うことになり、女性はその場で本に揮毫した。
句集名も作者名も知らないが、その女性ははなさんと呼ばれていた。
ちびちび飲んでいた酒もなくなり、夜十時を回りどうやら閉店が近いようだった。
座敷手前に本棚があり、そこにはなさんの句集が商品としてストックされているらしい。
『星の地図』でもないかと、男性客の背を通ってそこを見てみる。
けれども期待したものはなく、思いの外俳句関係の書物も少なかった。
頃合いかと思い、席には戻らずそこでお会計をしてもらう。

店を出る時は注意したので、頭をぶつけることもなかった。
スーツ姿にボストンバッグ、外はさほど寒くなかった。
店員が外まで見送ってくれた。
年の頃は二十歳から二十二といったところだろうか。
店を後にし、ひとつ目の角を曲がったところですぐに来た道をのぞき見てみた。
さおりんと呼ばれていた彼女はわたしの姿が見えなくなるまで動かず、ややあってから暖簾と共に店内に戻った。


あとひと月でその店はなくなってしまう。
もう行くことはないが、一度きりの訪れでも良かった。

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2007年08月01日

黄の青の赤の雨傘

黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ     林田 紀音夫


見えているのは、黄色の雨傘、青の、赤の雨傘。
それぞれの傘には持ち主がいる。
さて、一体誰から死ぬのか。

・・・

存在しているのは「雨傘」である。
「誰から」とあるので、黄・青・赤という少なくとも三種類の傘があるのだろう。
そしてそれらは持ち主、または使用者を示す。
ただ、作品上に現れているのは人ではなくあくまで傘。

ところでこの句、一つ違和感を感じる。
「黄」の「雨傘」に対してだ。
三色のうち、青は女性の雨傘としても不自然ではないが、なんとなく男性的な印象を受ける。
赤は女性だろう。
しかし黄色の雨傘を差すのは、性別に関係なく小学生ではないのか。
それ以外に黄色の雨傘はあまり見ない。

もちろん違う鑑賞もある。
「たとえば梅雨時の新宿駅南口。雑踏の中に密集して揺れ動くカラフルな雨傘群。
 改札から押し出される群衆の一人としてその中に紛れつつ、ふと、この中の誰が
 最初に死ぬのだろうか、という意識にとらわれた。そういう句だ。」
と川名大は読む。※
この場合、話者の視線は冷めている。
また天候は違うが、高見順の「青春の健在」のようにこの句を読むこともできる。
「さわやかな朝の光のふりそそぐホームに
 電車からどっと客が降りる 」
「さようなら
 君たちともう二度と会えないだろう
 私は病院へガンの手術を受けに行くのだ」
「見知らぬ君たちだが
 君たちが元気なのがとてもうれしい 」
自分より長く生き残る者への、話者の視線は温かい。

話を戻す。
これは、子と父と母、誰から死ぬか、という句ではないだろうか。
その三つが並ぶ日々が、どのように果てるのかを想像している。
その日々は平穏無事で幸せで、失いたくない時間かもしれない。
黄の雨傘が小学生と決まってはいない。
しかし、もしそう読むと、話者は小学生の死の時をも思い描いている。
そしてそれは青より赤より早い黄の雨傘の死として、である。

誰に最後まで生きていて欲しいかというような希望は読み取ることができない。
なにかの願いがあるわけでもない。
ただ、複数の人がおそらく同所にいて、その人々が死期を異にするだろうという予測がある。
降る雨を止ませる方法はない。
せいぜい傘で濡れるのを防ぐだけ。
失われることが確実な「今」に対しても、それに似た諦めが感じられる。



※ 富士見書房「俳句研究」2006年11月号 
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2007年03月26日

夢を見た

とうとう夢の中で俳句を詠んでしまった。

  隣人のページ繰る音春の雨

けさは曇りだった。
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2007年03月01日

大高翔『ひとりの聖域』

大高翔の第一句集である。
1991年(13歳)からの五年間の俳句を集めた句集だと書かれている。
序は青柳志解樹、跋は尾林朝太。最後に著者のあとがきがある。
部立ては春、夏、秋、冬の四部で、各部の最初に著者による一ページの短文が載せられている。

  春スキーさしだす君の手が欲しい

  宵えびす鯛焼きしっぽからかじり

巻頭と巻尾の句である。
春の部の短文を読みページを繰ってこの句をまず目にしたとき、思わず句集を閉じかけた。
甘い。

特徴としては、文語・口語両方の句が区別無く収録されている。

  サングラス心の余白ありしとき
  秋湿り疑惑とコーヒー残されし

  夜半の春淋しいなんて言わないで
  嵐のあと短くなった髪洗う

また、年齢が詠み込まれた句がある。

  秋風にふとさらわれて十五の恋
  十六歳は時限爆弾花ぐもり
  砂灼くるひとつの肩書き十七歳

これらの他に、制服や校章など、学生ならではの語が目立つ。

よいと思ったのは次の一句。

  秋深し色鉛筆の赤がない

恋とか淋しいとかの句を読み進みこの句とぶつかった衝撃は大きかった。
編年体ではなく季節別なので、順に読んでいっても人生や恋の流れはうまくつかめない。
物語としてそれを楽しむことは意図していないのだろう。



大高翔『ひとりの聖域』邑書林 1996.03.31 定価1900円

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2006年11月08日

冷蔵庫

冷蔵庫静かに冷やす明日のもの    佐藤 至子


冷蔵庫がある。
その中に冷やしているものがある。
それは明日のためである。

・・・

冷蔵庫があり、扉があり、その密閉された空間に冷やされているものがある。
それは今もあるものだが、用いるのは明日である。
そして冷蔵庫で冷やすのだから、そのものは食べ物であると考えるのが自然だ。

食品を冷蔵庫に入れる目的は、とりあえず二通りあると思う。
ひとつは腐敗を防ぎながら保存するという、後ろ向き目的。
早く食べてしまった方がいい。
もう一つは調理法のひとつとしての冷却という、前向きな目的。
この場合、冷蔵庫に入れずに食べてしまうなんてもってのほか。
ババロアやゼリーなど、夏向きのお菓子に多いように思う。

この句では、何を冷やしているのかは語られていない。
ただ、「明日のもの」とされている。
今日作り、明日食べるもので、冷やす目的は後者だろう。
自分で食べるにしても、誰かにあげるにしても、そこには喜びがある。
まだ熱を持ち未完成のそれを静かに冷やし、明日を待つ。
明日がどのような日かも不明だが、おそらくは楽しみな日なのだろう。

冷蔵庫は、白物家電と呼ばれる生活に深く関わる電化製品のひとつである。
一度プラグを差し込めばそれがずっと続く毎日。
代わりばえのない日常を暗示するかのようなその箱形の中に、明日の喜びが整えられつつある。


季語   :冷蔵庫(レイゾウコ)
口語・文語:?
仮名遣い :?
表現形式 :一物仕立て+二句一章?
表現技法 :――


季語には本意というものがあるという。
それは例えば

 「春雨」本意は明るさを失わずに降る、静かで細かな、
 濡れても気にならないほどの雨のこと。(※1)

というように語られる。
冷蔵庫に本意があるとすれば、それは「未来の喜び」ではなかろうか。

 冷蔵庫静かに冷やす明日のもの    佐藤 至子
 金塊のごとくバタあり冷蔵庫     吉屋 信子
 冷蔵庫に冷えゆく愛のトマトかな   寺山 修司

いつかそこから何かを取り出して食べる。
けれども今は、冷蔵庫はそれを蔵しているだけで、人はそのいつかを期待を込めて待つ。
それは日常の中のささやかな喜びではないか。
それは冷蔵庫に入る程度で、ものとしては食べればなくなる程度である。
しかし日常の中のささやかなものであるが故に、ずっと続いていくかもしれない喜びである。

冷蔵庫の句には他に、「日常の平凡さ、つまらなさ」を詠んだ句もある。

 用のなきときに近づく冷蔵庫     櫂 未知子  (※2)
 ほどほどにさびしきものに冷蔵庫   東條 陽之助 (※3)

冷蔵庫という、現代では季節を問わず使われる生活用品を俳句に詠むと、これらのような詠み方にしかならないと思っていた。
これらの句を時間をかけて鑑賞しようとは思わない。
「用のなき」の句を榎本好宏氏が「大方の人が相槌を打ってくれる(※4)」と評している。
けれどもこれが褒め言葉になるのは川柳の世界だと思う。

それに対して、「冷蔵庫静かに」の句は、読んでその捉え方に心を動かされた。
いいなあ、と感じた。
この感じがあるから俳句を読む。
だから、そういう俳句があって欲しい。
わたしは、季語「冷蔵庫」から、心動かされる俳句ができることを諦めていた。
それを裏切ってくれたばかりか、この先も白物家電の冷蔵庫を詠んだいい句ができるんじゃないかとさえ期待する。


※1 橋本榮治「本意を知り、本意に遊ぶ」角川書店『俳句』平成18年1月号 p71
※2 角川書店『俳句』平成16年8月号
※3 角川書店『俳句』平成16年10月号 p289 
※4 角川書店『俳句』平成16年10月号 p244

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2006年10月21日

流れ行く大根の葉の  鑑賞1

流れ行く大根の葉の早さかな     高浜 虚子


目の前を大根の葉が流れて行く。
ああ、もう行ってしまった。

・・・

目の前を大根の葉が流れていく。
流れて、行く。
そのはやさ。
冬の水は冷たく、凝縮されて重く、それが流れ続けている。
空気もまた、冷たかろう。
そこを、大根の葉が流れてきた。
そして、大根の葉が流れていった。
あっという間に、元の水だけの流れである。
冬の、おそらく寒さの中の、一瞬の出来事だった。


季語   :大根(ダイコン)
口語・文語:文語
仮名遣い :?
表現形式 :一物仕立て+一句一章
表現技法 :――


この句に関しては、ある疑問を持っていたので、それは頁を新たにして書く。
それまでは、その疑問に目をつぶる。

さて、確かにこの句に描かれたと言えるものは、「大根の葉」だけである。
大根の葉ではない部分も、水の流れも、確かに存在しているとは言えない。
「流れ」が、実は時の流れだったとか、流砂だったとかも、まったくあり得ないとは言えない。
一番あり得そうな、かつ自然な想像として、水の流れをわたしは頭に描いた。
それは田舎の町の路地裏にある用水路のような流れである。
そこで主婦が、老いも若きも洗濯板で洗濯をしたりたわしで野菜の泥を洗ったりしている水路である。
上にも書いたが、大根の季節の、つまり冬の、寒さの中だと思う。
春はまだ遠い。
また、時間帯は夕飯前やお昼の前後などではなく、早朝だと、なんとなく思っている。
この二つに関しては根拠は何もない。
話者は最初から大根の葉を見ていたわけではないと思う。
水を見ていて、暮らしぶりだとか水の冷たさだとかを考えていて、そこにふっと大根の葉が流れてきた。
あ、っと思う間にそれはもう流れていってしまった。
そんな一瞬の出来事で、そこで話者と大根の葉の出会いと別れは完了した。
いかに突然現れて、いかに突然過ぎ去ったか、そのはやさ。

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2006年10月20日

流れ行く大根の葉の  鑑賞2

流れ行く大根の葉の早さかな     高浜 虚子


さて、前頁に予告した疑問について、である。
それは「早さ」という漢字の選択についてである。

手持ちの辞書、旺文社『国語事典 第九版』で調べる。
これには「早い」と「速い」の使い分けが以下のように書いてある。

 「早い」は、物事を始めたり終えたりする時刻や時期が短い、前である意(後略)
 「速い」は、一定の距離を進むのに要する時間が少ない、速度がすみやかの意(後略)

さらに「速い」の用例として、「流れが速い」ともある。
要するに、
 早い…タイミングについて
 速い…スピードについて
ということなんだと思う。
Microsoft社のワープロ機能でも、同様の使い分けや例が表示される。
現代の辞書レベルでは、このような使い分けが一般的なんだろう。

ところがそれに従うと、この句の早さは流れの速度のことを言っているのではないことになる。
前ページでわたしはここに目をつぶり、この「早さ」を流れるスピードのこととして読んだ。
現代の辞書レベルでの使い分けに則ると、その読みはふさわしくないものになる。
流れの速度にかわって考えられる早さは、たとえば早朝であるということ(一日の内での時間帯の早さ)や、大根の時期、つまり冬のうちでも、時期が早いということ(一年の中での早さ)のようなものである。
そうするとこの句は、

 もう誰かが上流で大根を洗ってる。まだこんなに朝早くなのに。

とか、

 もう大根の葉が流れている。まだ収穫できるような時期じゃないはずなのに、早いなあ。

というように鑑賞できる。

けれどこれではそう読めたとしても、それを句の主題として読みたくはない。
できればこの「早さ」を、スピードとして読みたい。
『日本国語大辞典』でもあれば、虚子の頃この漢字表記でスピードを意味できたかどうかわかるが、あいにくソンな大層なものはない。
市内の図書館にもなかった。
しかし、その使い方をしている句には出会った。
虚子より前の時代の人である。

 五月雨をあつめて早し最上川    松尾 芭蕉

この句の「早し」を、タイミングで読むことはできない。
無理にそうしたとしても、不自然きわまりない。
もしかしたら芭蕉や虚子の句が詠まれた当時は、スピードを「早」で書く用法が正しかったのかもしれない。
それは当時の出版物や辞書などで確かめてみないとわからない。
とりあえず、俳句レベルでは芭蕉の有名な先例があるから、虚子の句でも「早」の字をスピードとして読むことは許され得る気がする。
誰の意見も聞いていないので、実際に許されるかどうかはわからない。
許されるという仮定の上に、再び鑑賞に戻る。
ここからが鑑賞2である。

この句は「はやさ」を表記するのに、速さではなく「早さ」という漢字を用いている。
わたしはこの句を、根拠が無いながらも早朝の景として読み、そのために水の冷たさや空気の冴えなどをより強く意識して読んでいる。
たぶんこれは、使われている漢字が「早」だからだと思う。
先にも述べたが、この句の中で想像できる「早」さは、早朝だとか、季節の早い時期だとかである。
おそらく私はこの漢字が持つ時期的な早さと、俳句の文脈から読み取れる流れの速さとの両方を汲み取って鑑賞していたんだと思う。
「早」とすることで、流れの速さというスピード感と、暗に早朝であったり季節の先取りであったりというような新鮮さを感じさせているのではないだろうか。
仮に漢字表記が「速」だったら、

 流れ行く大根の葉の速さかな

となって、スピードがあることがより明らかになったように感じる。
でもただそれだけで、「早」と比べてあまり想像力を刺激されない。

この漢字の選択が、この句の最も肝心な部分だとは思わない。
しかし、漢字一文字の選択の重要性と、指摘している鑑賞を見たことがないとのことで、ここに書く。

(すでに周知の事実だから誰も書かないとかだったら、恥ずかしいけど、それでもいいや)

posted by ハクメイ at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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